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【発酵思想 Vol.4】“あわい”の哲学-「茶室」と「発酵」の共通性とは?-

こんにちは。
前回の発酵思想では、「自分と他者の境界線」について綴りました。

【発酵思想 Vol.3】〜自分と他者の境界線〜自分を構成してる物は何か?

今回は、あわいの哲学と題して茶室と発酵の共通性を綴ります。

あわいとは、「間」のことです。古語では、「あはひ」と書いて「あわい」と呼びます。

この「あわい」という概念は、日本人の美意識であり哲学です。日本人ほど「間」を重んじる民族はいないでしょう。

それは、何気なく普段使っている言葉に現れています。

例えば、人間、仲間、時間、空間、間違い、間に合う、間が悪い、間抜け、一手間など「間」という言葉をよく用いるのは日本語の特徴だと思います。

「あわい」というのは、事物と事物をつなぎ、取り持つ存在であり、その存在はそれら事物の関係性により絶えず変化し生じたり滅したりする「空」という存在なのかもしれません。

「あわい」を言い換えれば、スキマですが、このスキマがあることで、一つの物体として認識することができます。

そのスキマは「ゆとり」であり「よはく」が内包されています。

西洋の完全性美意識と日本の不完全性美意識

西洋建築は、レンガや石を用いて壮大優美なバロック調建築と言われています。

絶対的なGodを信仰する一神教文化の影響もあり、変化しない絶対的で完全な空間を好み、絶対的空間が自然の力で風化していく様に崇高さという美意識を見い出しました。

それに対して日本人は、自然災害の多い地理的条件もあり、変化する事を前提に不完全性を内包した空間を設計し、風化して変化する姿に侘び寂びという美意識を見出しました。

茶の本によると、茶室は「「不完全崇拝」に捧げられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる[i]」と書かれています。

不完全であるということに空間的美しさを見出した日本人の真髄が茶室という場所には詰まっています。

不完全である状態は、欠けているということであり、そこには「余白」が生まれます。

余白が生まれると、そこに観察者の想像性が喚起させられます。

観察者がその不完全な空間の中でつくり手の想いを味わう手助けをするのがこの余白です。

想像の余地を残すという不完全性もまた、「あわい」です。

[i] 岡倉覚三 著 村岡博 訳(1929)『茶の本』岩波文庫 p.54

茶室に観る「あわい」

茶会の際に客人が待つ待合と茶会の会場となる茶室を連絡する「露地」という庭の小道があります。

この露地は、茶会に参加する客人の意識を切り替えて俗世から切り離す転換装置として働きます。

客人は、露地を歩いて茶室に向かうまでの間に、庭石や苔、花などを観て、主人の宇宙に触れ、物語に想いを馳せます。

この「スキマ」によって客人が茶会を催す主人の心にチューニングされ、茶を通して心を通わせる事を可能にします。

まさに、露地空間が主人の意識と客人の意識世界の間を取り持つ装置として存在になっています。

客人が外界との関係を断ち、主人と心を通わせる準備ができ、いざ茶室に入る時に待ち受けるのが、「にじり口」と呼ばれる小さな入り口です。

すべての客人がこのにじり口をにじって入りますが、殿様であろうと武士であろうと農民であろうとすべての人が平等であり、対等な関係であることを表現し、客人がそのことに同意する意思表示を示すのがにじり口を”にじる”という行為に現れます。

にじり口という介在者が茶室空間の入り口にあることで、茶室という場所が平等で平和であることを定義している。

その意味で、にじり口もまた露地と同じく主人と客人の意識を同調させる「あわい」の装置であります。

縁側の存在も「あわい」の表れです。

縁側は、部屋の中でも外でもない「あわいの空間」です。

ウチは張り詰めた緊張感があり少々息苦しさがあるのに対して、ソトは打ち解けない壁がありよそよそしさがあります。

その内でも外でもない中間の空間だからこそ、居心地がいいのではないかと思います。

そして、縁側から眺める庭にも主人の宇宙が表現されています。

その庭を眺めながら主人の心情を噛み締めながら客人同士が会話を楽しむ朗らかな雰囲気を醸しだす縁側と庭の存在もまた「あわい」の持っている力ではないでしょうか。

茶室という質素な建物が、様々な介在者によって多様な空間的重なりを内包し、主人の世界と客人の世界を調和させています。

この調和が生まれるためには、茶室の持つ不完全性という「あわい」が重要な役割を担っています。

発酵に観る「あわい」

発酵か腐敗かこの違いは、文化の違いによって現れます。納豆を発酵と観るか腐敗と観るか。

ブルーチーズを発酵と観るか腐敗と観るかは、まさに文化が隔てています。

つまり、発酵というのは、人間視点であるということです。発酵も腐敗も微生物の働きは特に変わりませんが、人間が食べて無害で有益なものを発酵と定義しているにすぎません。

日本酒をつくるにしても、味噌をつくるにしても人間と微生物が互いに同調し、調和して初めて美味しい発酵食品が生まれます。

そして、今当たり前に飲んでる日本酒も食べている納豆もそれらが生まれたのは偶然であり、その偶然性が珍味を生み出し、何百年も受け継がれて飲食されています。

そして、その発酵する過程の中でも、温度や湿度、関わる人の体調、微生物の体調などなど多くの不確実な「あわい」の中で醸されていきます。

その不確実な不完全性を発酵は秘めており、その不確実な状況の中で、人間と微生物が互いの状況を察しながら、地球そして宇宙とチューニングしていくことで、美しい味が生み出されていきます。

全てが規定され、完璧な状態では美味しい発酵食品はできないと思います。

実験室のような場所で、発酵に必要な微生物だけを残し、それ以外の菌を殺菌し無菌状態にします。

温度も湿度も厳格に管理し、人間が介在しないで機械で発酵します。

安定した品質で生産はできますが、個性はなく味気のない発酵になるのではないでしょうか。

それよりも、その地域固有でその蔵固有の野生の微生物たちが他の微生物と共存しながら、つくり手の微生物ともコミュニケーションしながら醸されていく発酵の方が個性豊かで美しい発酵ではないかと思います。

そこには、制御不可能な不完全性が存在しており、余白があります。発酵にも「あわい」が大事なのではないでしょうか。

あわいの哲学

今回は、茶室と発酵の共通性として「あわい」を取り上げました。

何かと何かの間を取り持つ「あわい」の存在が、両者を意識を調和させ、互いの得意を引き出し活かし合うことを助けます。

最近の世界情勢を見ても保護主義や難民問題など世界が分断されたり、国内情勢でも自己責任論という分断が起きています。

分断もまた二者間の間を生み出す行為ですが、「あわい」とは逆で互いを攻撃し受け入れない状態であり腐敗状態を生み出します。

社会が腐敗していく中で、意識を調和させ互いに受け入れ合う「あわいな関係」を取り持つためにも、日本の先人たちが築き上げてきた美意識や発酵から学ぶ必要がありそうです。

参考文献

  • 岡倉覚三 『茶の本』岩波文庫
  • 寺田啓佐『発酵道』スタジオK
  • 小倉ヒラク『発酵文化人類学』木楽舎
  • 安田登 『あわいの力』ミシマ社

千葉恵介

1996年岐阜県生まれ。思想家。
感謝経済という見返りを求めない贈与の循環を滑らかにする潤滑油として「ありがとう」を用いた経済を提唱し、共感する人たちと共に醸している。
また、感謝で繋がる恩贈りSNSであるmusubiを開発し、貨幣に頼らない経済を模索中。
参考 【ファンクラブ】一緒に「ありがとう」で成り立つ経済を創りませんか? - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

今までの「発酵思想」
【発酵思想 vol.0】感謝経済を提唱する思想家・千葉恵介とは? 【発酵思想 Vol.1】発酵から何を学び、次世代に何を残すことができるのか? 【発酵思想 Vol.2】感謝経済を創るのではなく、なぜ醸すなのか? 【発酵思想 Vol.3】〜自分と他者の境界線〜自分を構成してる物は何か?

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